秋葉原が電気街だった頃

僕は、小学校2年の頃、唯、電子ブロックという、簡単なラジオが作れるなど、150回路が作れる、おもちゃをクリスマスの日に買ってもらい、作っては壊し楽しんでいた。

小学校4年くらいから、半田ごてを持ち、『マンガで解る電気』また、『マンガで解る歴史』他、そのシリーズにはまっていた気がする。また、本屋さんの紹介で、『ラジオの制作』や『初歩のラジオ』等、買って、何処に部品が売っているのかも知らず、電気屋さんで、部品も売ってくれたが、真空管用の物ばかり、当時は、トランジスタも、まだ部品としては珍しかった。基板では無く、落胆誌という部品に半田付けなどしていた。

通販で、親父に頼み、部品を買ったりしていた。真空管ラジオの『キット』という部品の揃った、組み立て用の、製品もあった。小学校5年の頃『楽しいマイコン教室』という本を買い、TK-80と言うマイコンの本だったが、マイコンはさすが高過ぎて、買えなかった。

僕は、小学校5年の頃から、尋常小学校を卒業していれば、『奉公』という形で仕事が出来、唯、『詩』を書く事は好きで、また、図書館で、沢山の本を読んでいた。その影響で、『作家』を目指し『上京』して、本を書いていた。

僕は、エルビスプレスリーに憧れ、エレキギターを買って良く弾いていた。また、本を書く為に、沢山の小説も買い、読んでいた。しかし、学生向けのSFの本の原稿が盗まれ、たまたま、当時NHKの人に、『お前の原稿なら、ドラマを作れ』と言われ、『少年少女SFドラマシリーズ』という時間をくれたので、しばらく作っていた。また、夜の放送の『銀河テレビ小説』も担当していた。僕も、『ドラマ俳優』をしながら、お金を貸せいていた。

NHKでは、また、『アナウンサー』の勉強もしていた。忙しい中、電子関係のことは、二の次になり始めていたので、ラジオの制作なとは、連載も抜け始めていた。唯、中学だけは、『真面目に学校へ行け』と言われて、中学と高校は真面目に出たつもり、と言うのは、多重人格疾患もあり、記憶が繋がったのは、50才くらいでした。それまでは、二つの世界をまたがって生きていた事にも気付かずにいた。

今思えば、かなり忙しい日々を送っていた。ここのところのコロナ渦、また母親の介護で家にいる事が置く成った。Synthesizerと言う電子楽器も『ラジオの制作』で知った。

Analog・Synthesizerを作り始めていた。唯、MC-8と言うMachineは、120万円もするという物だったので買えず、自作Sequenceの部品代を計算したら、60万円もかかる計算になった。秋葉原で、PC-8001が、16,8000円で売られていて、マイコンで、MC-8相当の物を作れないかと思った。それで、Z80-CPUと言う物を知る事になった。マイコンのI/Fも全く解らず、秋葉原で『パソコンにて足を付けよう』という本を買い、その後、秋葉原で、PC-8001関連の本は買っていた。本を処分しなければ良かったとも思っている。

また、今に成って、『シンセサイザーって何』、そんな時代が来ている。今、この負ブログは、ある意味、子供達への夢として、『マイコンを作ろう』という物も、僕の課題だ。およそ半世紀前のマイコン、80系はMasterできたが、68系のマイコンをこれから勉強しようと思っている。Z80ニモニック互換のKL5C8016組み込みマイコンでの完全自作マイコンは出来た。それなら、Z80-40Pのマイコンをまず作ってみようと試行錯誤を繰り返していた。やっと、これで動くのでは・・・と言う基板が作れそうだ。失敗の繰り返しだった。作ってはバラシの繰り返しはやっと終わりそうだ。だから、68系を作ってみようかとも思い始めていた。MC6809Pと言う部品は、海外部品がある事を知り、入手した。また、何故DAWと、Analog・Synthesizerを接続出来ると思い始めたのかというと、マイコンでは、MIDI-Sequencerは作れていた。20年前には、完成はしていた。それを使って、Analog・Synthesizerと接続しようと思い立ったのは、ブログを書き始めてからだ。写真のマイコンとの接続を可能にした、インタへーフェースも作ってあった。

発想の転換で、今のDAWを使って、Analog・Synthesizerも動かそうと思い立ち、Z80が廃盤なら68系なら部品は入るだろうと思いつき、今6809Pを学び始めた。

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